2024.10.31 No.452 校長 山口 旬
異文化理解と選択肢
前号の続き。相手との違いを知り、己を知ること。
相手のことを学ぶことによってゆくゆくは自分のことを知ることになります。
国際理解、異文化理解教育の目的は、総じて、このことにつきると言ってもいいはずです。
かつて、特別礼拝でバングラデシュから来日された方の言葉「あなたがたの考える豊かさと貧困は、すなわち選択肢の数でしょう。人が生活するとき、選択肢がいくつあるか。あれにしようかこれにしようか。選択肢が多ければ多いほど、その社会は豊かであるといえるかもしれません。食事にせよ職業にせよ、選ぶ余地のないぎりぎりの生活をするしかない私たちを貧しいと呼ぶのであれば、たしかにあなたがたの生活は豊かであるといえるでしょう。この国ではできないことがあなたがたにはできる。だからこそ、みなさんにお願いしたいことがたくさんある。私たちは、たしかに経済的には貧しい。でも、それが惨めだとか、貧しいからこの国が嫌いだと感じることはまったくありません」
選択肢の数。たしかに日本にいる私たちの生活には数え切れない選択肢があります。でもその選択肢の中には、本来選ぶべき項目が年々減ってきていることも事実です。便利すぎる生活にどっぷり浸り、生きる力をどんどん削がれた子供たちの姿を見ていると、地球上で一番強いのは経済的に貧しい人たちではないかと感じてしまう。もし太陽フレアの超強力電磁波や宇宙人侵略や怪獣出現で文明社会が破壊されたら真っ先に滅ぶのはスマホ脳になった我らであり、生き残るのは「貧しい」国の人たちだと言われます。
わたしたちがアジアを学ぶ理由、それは、日本も同じアジアの一部であるということも事実ですが、それ以上に、この世界でわれわれいわゆる先進国の人間が果たさねばならぬ責任があり、それは限りなく大きいということです。今どき耳タコの説ですが、地球に10個のパンがあって十人いたら、そのうちの二人が8つを食べている。われわれはその二人に含まれているのです。食事をしたくても食料のない人がいるのに、日々のフードロスのあまりの多さよ。カフェテリアで食べ残しを当たり前のように捨てる姿。食べてみておいしくないならともかく、最初から食べる気全くなし、手つかずで捨てる児童が少なくありません。現在は、給食を強制的に食べさせることはしない時代です。安心して堂々と食べ残す姿を見ていると、自戒も含め、間違いなくわれらはいつの日か報いを受けるだろうと感じてしまいます。
食べたくても食べられない人たちがいる。教育を受けたくても受けられない人がいる。
私たちは、たまたまこの国に生まれ、こういう生活をしている。でも、違う国に生まれることだってあったかもしれない。この国に生まれたのは本人の手柄ではないのです。
確かに現実的に小学生がアジアの貧困や国際問題に深い理解を示すことは出来ないでしょう。でも、今は種をまくことなら出来ます。種は蒔かれなければ芽は出ません。今は種でも、将来「あ、あのときバングラやタイについてやったな」「ああ、あのときのあれか」と実を結ぶ時がきっと来る。そのときにしっかりと種が蒔かれていることが大切なのです。